世田谷の有名人

林 芙美子の旧居


「泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私たちの長屋だろう。
兵営の屍室と墓地と病院と安カフェに囲まれたこの
太子堂の暗い家にもあきあきしてしまった」

これは、小説家・林 芙美子が書いた「放浪記」の一説です。
彼女は、大正14年(1925)に渋谷の道玄坂から
円泉寺の西側に越してきて、逆境と貧困の生活を送りました。
この文に書かれている兵営の屍室と病院は
陸軍第二衛戍病院で、現在の国立小児病院
墓地は円泉寺の墓地のことです。

林 芙美子は、山口県下関市に生まれ、幼い時から放浪し
大正11年(1922)に上京しました。
さまざまな職を転々とし、昭和5年、放浪生活の苦しさを
日記体で綴った長編小説「放浪記」がベストセラーとなり
その才能を開花させました。

現在、太子堂3丁目にある円泉寺の角に旧居跡の表示板があります。
その狭い路地を奥に入り、左に曲がった左側の二軒長屋に
芙美子は住んでいました。その壁越しの隣には
壷井榮が住み、近くの理髪店の二階に住んでいた
平林たい子が度々訪れていました。

当時、このあたりは安普請の貸家が多かったため
お金のない文士たちは住みやすかったといいます。
「生活の足しに書いた童話など売れたりすると
 今川焼きを買って食べ、お米のない時も
 それでおなかをふくらませことがあった・・・・・」
と壷井榮は「はたちの芙美子」の中で当時の苦しさを回想しています。

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