松原に家を建てた竹久夢二


長い睫毛にうるんだ瞳。はかなげな姿。
その独自の美人がをはじめ、歌や詩、小説を書き
デザインやイラストを描くなど多彩な芸術で
一世を風靡した夢二は、大正浪漫の寵児でした。
しかし、同棲、二重結婚、貧困、死別
そして漂泊と、夢二は数々の女性との
出会いの中で、心の病を抱えながら、芸術を生み出しました。
そんな夢二が、ひととき世田谷に住んでいました。
夢二は明治17年(1884)に岡山県邑久郡本庄村の小さな
造り酒屋に生まれました。19歳で上京、早稲田実業に入学し
新聞に絵や散文を投稿し、しだいに売れっ子になっていきました。
その頃、早稲田の鶴巻町にあった絵葉書屋の
娘たまきと恋に落ち、わずか二ヶ月で結婚。
大きな瞳と憂いを含んだ表情のたまきをモデルに描いた
絵こそ夢二の美人画の原型であり、彼をより有名にさせたのです。
そんな夢二が、大正13年(1924)12月に
今の松原3丁目にアトリエ兼住居を建てました。
赤い切妻屋根に白壁の西洋館は
いかにも夢二らしいロマンチックなものでした
「少年山荘」と名付け、その窓からでしょうか、
翌年開通し、時たま通る玉電をスケッチした絵が残っています。
しかし、夢二は永くは住みませんでした
その後、夢二は漂泊を続け昭和9年1月
結核治療のため信州富士見高原療養所に入院し、
9月1日「ありがとう」の一言を残して50年の生涯を閉じました。
  まてどくらせどこぬひとを
 宵待草のやるせなさ

いつも恋にさすらい、芸術の海をさまよい
孤独と失意の漂泊の中で不滅の作品を残しました。


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