2003年元旦は『布津新田』にて



〜2003初日の出・・残念〜
今年の元旦は島原半島
「布津新田」で迎えました・・・
ぜ?って・・
T*Tの奥様の実家が
ここ「布津新田」なのです

奥様先に帰ってしまったので
大晦日、日の出とともに起床
ひとり電車を乗り継ぎ
約11時間!
真っ暗になった頃に到着
いや〜お尻が痛い!(爆)
翌元旦の朝・・・
何はともあれ「初日の出」
奥様起こして道案内を頼み
近くの港にGO!
さぶい・・九州って暖かい
のかと思っていたが
やっぱり寒いのね(微笑)
しかし・・凄い雲!
まてども太陽は顔を出さず
諦めて近所を散歩です
島原鉄道の線路を
ちょっと歩く・・1時間に1本
しか来ない奴がやって来た!
・・ばっ!!汗;・・

〜島原鉄道〜
この土手の上を歩いてみた・・のだ


〜船の向こうが「普賢岳」〜
島鉄から命からがら?
逃げて・・おぃおぃ
港を散策してみる
朽ちた船の向こうに
普賢岳が見えます
厚い雲に覆われ
山頂まではっきり見えません
ちょっと残念・・・・。
暫く散歩をして
奥様@実家に戻り朝食・・
こちらの方で有名な
具雑煮!うまい!
具がイッパイのお雑煮なんですが
こちらでは年中?食べるようで
具雑煮屋さんを見ました
朝食後しばしダラリとして
島原観光に出掛けることに・・
車をかりてGO!

まずは・・島原城
元旦なので?休館・・・・・・・。

昨晩、大晦日にはえらい
イベントが有ったようなのですが
この日は何組かの観光客のみで
ちょっと寂しい感じです・・。

ところで、お城に白いロープが
架っている様に見えますが
これ、電球がイッパイ付いています
凄いライトUP!(微笑)

〜島原城〜

〜北村西望の作品〜
内部の見学が出来ないので
お城の周りを散策

島原が生んだ日本彫塑会の
巨匠!北村西望の作品が
沢山ならんでいました
また、美術館らしきものも
有ったのですが・・・休館

さてさて・・次にいこ〜〜

島原城全体図はこちら

島原城って?

1616(元和2)年、大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政は、
1618(元和4)年から7年余の歳月を費やして島原城を築きました。
城は昔「四壁山」「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので、
別名を森岳城とも言います。南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの
長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所ありました。
内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北に藩主の居館である
三の丸が続きます。本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込めの
五層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓がそびえ立つ豪壮堅固な
城構えでありました。城は松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・松平氏と
4氏19代253年間の居城でしたが、1874(明治7)年に廃城となり、
民間に払い下げられました。以来、文字通りの荒城となっていましたが、
1964(昭和39)年に天守閣が復元されたのをはじめ櫓も復元され、
次第に昔の面影がよみがえっています。 現在、城内の建物は
キリシタン史料館(天守閣)、北村西望記念館(巽の櫓)民具資料館(丑寅の櫓)
などに利用されています。なかでもキリシタン史料館は、
有名なキリシタン大名有馬晴信(ドン・プロタシオ)時代に盛んであった
南蛮貿易時代から、宣教時代・禁教時代・弾圧時代と続き、
島原の乱関連の資料を展示しています。

島原市のHPを参考に致しました
http://www.city.shimabara.nagasaki.jp/
 

島原城から徒歩約10分
次にやって来たのが「武家屋敷跡」
かなり期待して来ました(微笑)
うぅ〜ちょっとイメージと・・・・
中央に水路があり雰囲気は最高!
しかし何軒かしか古い建物は
残っていません・・そりゃそ〜か・・




まさしく!仕置き人の食事風景・・
むこ殿・・・!」(爆)

武家屋敷と言うのは
もっとデカイ物なのかと
思っていたが・・意外に小さい
仕置き人の家?(微笑)


道筋にあったお供え・・
これ何?お地蔵さん??

お腹が空いた〜〜
ご飯を求めて移動!!

またまた・・島原市のHPを・・・
武家屋敷跡って?

島原城の築城のとき、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの
住宅団地が建設されました。戦いのときには鉄砲を主力とする
徒士(歩兵)部隊の住居であったので、鉄砲町とも呼ばれています。
街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、
生活用水として大切に守られてきました。

島原城が竣工した1624(寛永元)年ごろ、藩主松倉氏は知行四万石で、
鉄砲町も下の丁・中の丁・古丁の三筋だけでしたが、
1669(寛文9)年松平忠房が知行七万石で入封してから
新たに上新丁・下新丁・新建の三筋が作られ、さらに幕末に江戸詰めの
藩士が帰国することになって、最後に江戸丁が作られました。
徒士たちの平常の勤務は、各役所の物書(書記)、
各村々の代官、検察や警察、城門の警備などでしたが、
1868(明治元)年の「戊辰戦争」には
260人ほどの徒士たちが官軍に属して奥州へ出陣、
4人が戦死するという戦歴も残しています。
一屋敷は三畝(90坪・約300m2)ずつに区切られ、住居は25坪ほどの藁葺き
屋敷内には藩命で梅・柿・蜜柑類・枇杷などの果樹を植えさせ
、四季の果物は自給できるようになっていました。
また屋根の葺き替えに使う真竹の藪を持った家もありました。

南北に通じる各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して
生活用水としていましたが、この当時、水源は主に2キロほど北にある
杉山権現熊野神社の豊かな湧き水を引いたものでした。
藩主松平氏は三河国の深溝(愛知県幸田町)の出身で、
家臣団も多くが三河者であったため、独特な「鉄砲町言葉」が
使われていましたが、現在ではほとんど聞かれなくなってしまいました。

島原市のHPを参考に致しました
http://www.city.shimabara.nagasaki.jp/
 


車を走らせる事、約1時間
元旦ってこんなにお店が
閉まっているの?って位
無い!食べ物やが・・。

そこで、やって来たのが
道の駅
みずなし本陣ふかえ

やたらと派手な道の駅です
まずは、ご飯!
普通の定食を頼むが
混雑でなかなか来ない(泣)
腹減った〜もう2時だよ・・とほほ
やっとお腹も膨らんで
内部の散策をする事に・・・
色々なお店・・銭湯・・結構広いです
*案内MAPが・・売っていた・・
くれよ〜くれよ〜・・・くれ・・


この道の駅には、普賢岳の噴火で
被害に遭った家屋が保存され
火山活動の学習も出来ます。
被害の現実を見ると
本当に大変な事だったのだと
実感します・・・・

しかし噴火で出てきた
土砂は凄い量だったのでしょう
あちこちに分散したらしい
のですが、屋根を真横に
見て歩くと言う事は・・・・・・
それだけ地盤が高くなったって
事ですよね〜・・スゴイ






施設の全体図


〜道の駅から見た普賢岳〜
残念ながらまだ・・雲が
道の駅を後にして
やって来たのが・・
またまた、火山のお勉強?
「雲仙岳災害記念館」
記念?ってなんぞや
と、思いつつ入館しました

入ってまず案内されるのが
噴火シアター?
様々な注意事項を聞いて
イザ!・・・
(残念ながら撮影禁止)
自分が鳥になったような
火砕流になったような・・
足元は揺れ、顔には熱風
画像がお見せ出来ないので
〜ずご〜
〜が・・
効果音で表現してみましたが
伝わりました?わきゃないか・・

体感シアターが終わって
やっと館内の見学
ここには、災害の爪痕を
移設展示してあります

〜記念館正面・・立派!〜
先ほどの道の駅よりも
さらに細かな品々を
見る事ができ
一番多く亡くなった
報道関係者が残した
機器も残っていました


〜道筋を再現〜

〜雲仙岳災害記念館から見た普賢岳〜
やっぱり・・雲!

雲仙岳災害記念館HP
http://www.udmh.or.jp/


山道を走る事、約40分
湯気に包まれる雲仙に到着
辺りはすでに薄暗く・・そして
かなりい!!
雲仙地獄を少々見学して
早々に退散しました
そろそろ日暮れも近づいて
来ましたが、せっかくなので
雲仙も見たい!って事で
ちょっと足を伸ばします

〜雲仙地獄〜

雲仙観光協会HP
http://www.unzen.org/

〜島原鉄道車窓から〜
一夜明けて1月2日
今日はもう東京に戻ります
また11時間電車の人です
まだお尻痛いのにね〜(笑)

最後に島原鉄道の車窓から
普賢岳を一枚
また雲が・・でも今までで
一番よく見えた!

またね普賢岳!!
また来るよ・・島原!

最後に・・・

平成8年の5月20日に、普賢岳ドーム部分を「平成新山」と名付け
長く続いた災害と新たな復興の記念としたそうです

平成新山は、火口から吹き出した溶岩が冷えて固まったもので
その容積は約1億立方メートル、実に東京ドーム84杯分の熱い岩の
固まりが出現したことになります。噴火活動は終息しましたが
平成新山の内部はいまだに高温を保っているのだそうです!


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